Heaven from 3cm above
2008年05月01日
高知新聞 和服美女空間『夜奏』

高知新聞「オペラグラス」
2007年11月17日 夕刊
竹内一

「夜の底への誘い」

 県立美術館の中庭、回廊、展示室を演劇舞台にして、「ポかリン記憶舎」の公演
「和服美女空間『夜奏』」が繰り広げられた。
 これまで同館では水を張った中庭を効果的に使った中島諒人演出の演劇
『ヘッダ・ガブラー』などがあったが、『夜奏』は建物の魅力をさらに生かした公演だった。
 夜の美術館を訪れた鑑賞者は「和服美女」の案内で受付ロビーから、中庭へと案内される。
そこには市民とのワークショップで作られた竹のオブジェが飾られている。
もうここから「和服美女空間」は始まっているのだろう。
 鑑賞者はまず中庭を見渡せる回廊に置かれたいすに着席する。そしてガラスを隔てて、
中庭で繰り広げられる演劇を鑑賞することになる。
 幻想的にライトアップされた中庭に、和服というよりは、古代の衣装のようにも見える
衣装をまとった女性たちが静かに現れ、そろりそろり歩きだす。ガラス越しに眺めていることが、
夢幻の世界へのいっそうの誘いとなる。そして女性たちは中庭から回廊へと進み、
鑑賞者のすぐ目の前を歩いていく。
 演劇の前半はここで終えて、鑑賞者は展示室へ移動する。
舞台は一転して閉じられた空間になる。衣装に触れんばかりの近さで、そぞろ歩きのような、
そのパフォーマンスは静かに展開していった。
 劇団を主宰する高知市出身の明神慈は、今回の公演を「夜の底の物語」と表現した。
確かにそれは、夜の美術館という舞台装置と和服美女を使い、まるでエレベーターに乗せられて、
どこか深い深い場所へ連れて行かれるような体験だった。

2007年07月07日
週刊「マガジン・ワンダーランド」 #14『息・秘そめて』

方法論と内容が一致した幸福な舞台 おおらかな「笑い」に開放感
松井周(サンプル主宰)
週刊「マガジン・ワンダーランド」

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=699

2006年10月29日
「國文學」2002年2月号

「國文學」2002年2月号
特集「演劇・ダンス・映画─時代を疾走する」
いま元気のある劇団20~“ポスト静かな演劇”を中心に~堤広志著


「ポかリン記憶舎」を主宰する明神慈は、人間の精神の所在を神秘的に捉えている。常に生や死、植物状態で意識の回復しない患者、眠り、夢といったモチーフを登場させ、肉体を超越した形而上的な視座から、彼岸と此岸に分かたれた人間たちの懊悩を浄化する。『回遊魚』(00年)では、失踪した女性の魂が、水族館に回遊する魚の体を借りて現われ、現世に残されたまま生き続けなければならない恋人の青年と対話する。その劇構造は夢幻能の形式に近いが、報われぬ情念が死後に持ち越される能とは異なり、ここでは異界の存在が、現世に残された青年の未練と苦悩を解消し、カタルシスをもたらす媒介となっている。『ピン・ポン』(98年)では、さらに何処とも知れぬ時空間に、相寄る恋人たちの魂が輪廻転生を繰り返しながら邂逅し逢瀬を続けるといった二人芝居となっており、こうした極度に象徴化した表現は、若い世代だけでなく、現在の演劇界を広く見渡しても、稀少な存在と言えるだろう。

2006年10月29日
雑誌「テアトロ」2002年6月号 存在の演劇~和服美女空間「水鏡」~

雑誌「テアトロ」2002年6月号 存在の演劇~和服美女空間「水鏡」~
(パフォーマンス)里見宗律著より抜粋


和服美女空間「水鏡」は「水槽」「水鏡」「庭宴」と続く実験公演の第二段。30分という短い公演ながら、現実の皮膜がゆっくりと剥がれ落ちていくような瞑想的空間を造型している。ここではない何処かへ・・・そんな淡い眩暈を感じさせる上演である。民家の中に位置するギャラリーで、和服を着た四人の女性が日本舞踊を思わせるたおやかな舞の手振りで名付けがたいなにものかを求めて乱舞する。行灯のゆらめきのようなわずかな明かりの中で、「存在の耐えられない軽さ」をじわじわと醸し出すコミカルでリリカルな公演であった。
<略>
明神らは不可視の別世界を夢見ながらも、「あちら側」へ「行ってしまう」ことの「カッコワルサ」を何処までも承知していて、神秘と演劇の問題をそのボーダーに漂うことで描いているのである。この足元をさらわれるような喪失感と宙吊り状態を描く舞台は非常に興味深い。

2006年10月29日
雑誌「悲劇喜劇」2001年10月号

雑誌「悲劇喜劇」2001年10月号
異才の肖像 ポかリン記憶舎・明神慈論~「存在の演劇」についての一考察~
中西理著より抜粋


90年代半ば以降の日本現代演劇を振り返ると群像会話劇の形式でその背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」が大きな流れを作ってきた。平田オリザ(青年団SEINENDAN)・岩松了・宮沢章夫らがその代表である。2000年以降、「関係性の演劇」を凌ぐ大きな流れになっていくのが「存在の演劇」である。「舞台上の俳優ならびにその関係が醸し出す空気をただ見せていく」というもので、明神慈もそのひとりである。

微妙に現実からずれた世界。まったくの異世界ではなく、微妙な距離で現実との接点を持っている世界を描き出し、そこから醸し出される「そこはかとない空気のようなもの」を観客に共有させる。彼女はそれに「地上3cmに浮かぶ楽園」と名付けた。この芝居では台詞と台詞のあいだにに非常に長い間(ま)があって、台詞以上にその間や台詞がないところでの俳優の演技が重要な意味を持つ。時には間と間のあいだにポツリポツリと台詞が置かれ、その中には極端に長い間もあり、それがスタイルの特徴をなしている。

多くの場合、語られるのは「異世界」との邂逅であり、それは近代会話劇というより、むしろ能楽やバレエといった古典劇との近親性を感じさせる。演出的にも世阿弥の「複式夢幻能」に近い劇構造を持つのだ。「回遊魚」において非日常的な身体を具現化する実験が試みられたことにより、明神は群像会話劇のスタイルから様式化された身体表現へと大きく舵をきった。「舞台上の俳優ならびにその関係が醸し出す空気をただ見せていく」(=存在の演劇)という新たなフィールドを想定し、そこに補助線として明神慈を置き、太田省吾(転形劇場TENKEI)の沈黙劇へのベクトルを引いた時にそこに新たな演劇の地平が立ち現れてきた。ここに明神の作家としての重要性がある。どんな地平を開いてゆくのか。新世紀演劇において見届けたい試みのひとつといえるだろう。

2006年10月29日
週刊「マガジン・ワンダーランド」 #13「煙の行方」

「存在の演劇」というフィールド 新たな演劇の地平が立ち現れてきた
中西理(演劇コラムニスト)
週刊「マガジン・ワンダーランド」

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=511